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出版社/著者からの内容紹介
おとぎ話によくでてくる「大判小判がザクザク」は、決して夢物語とは言い切れません。この日本の歴史の中には、本当に財宝を掘りあててしまった人たちが実在するのです。本書に収録されたエピソードや伝説の徹底検証を読めば、一獲千金も夢じゃない!?
抄録(「電子書店パピレス」より)
●小学生がけとばした壷から金貨がバラバラ
一九七六(昭和五十一)年九月二十七日のことだった。秋田県横手市羽黒町の市立南小学校六年二組の午後の授業は図工で、焼き物作り。焼き上がりを待つ間、四十一名の児童は担任の高橋準一先生といっしょに、学校の裏の愛宕山で遊んでいた。ボイッコ(鬼ごっこの一種)をすることになり伊藤政行君当時(十一歳)と黒沢敏和君(同)は、鬼が来ないところに逃げようと、山頂の広場に立つ「立志の塔」の東側の斜面を滑り降りて、その下にあった二平方メートルほどの少し平らな場所に立った。すると、地面の一カ所がもっこりとふくらんでいたので、伊藤君がそれをけとばすと、泥にまみれた白地に青い色の模様の入ったトックリのような壷が出てきたのである。黒沢君が、
「鬼が来ると見つかるぞ!」
と言ったので、伊藤君は壷を持ち上げて、
「来たらこれをぶつけてやる」
と、ふざけ半分で黒沢君に放り投げた。それを受け止めた黒沢君は「おやっ」と思った。カラカラッという妙な音がした、からである。そこで、壷をひっくり返してみると、お金のようなものがバラバラッと出てきたのだ。
「泥だらけだし、四角い形をしているから、お金じゃないんじゃないかな。とにかく先生に見てもらおう」
と、二人は再び山頂にかけ上った。報告を受けた高橋先生も、最初は一分金とは気がつかなかったが、学校に持ち帰って泥を落としてみると、山吹色に輝きだしたので「ひょっとすると値打ち物かも」と、翌日、横手警察署に届け出た。
三日後には、県警本部から県教育庁文化課へ回され、秋田市在住の日本貨幣協会会員の三浦畑四郎さん(当時六十七歳)が鑑定にあたったところ、江戸時代初期から中期の慶長、正徳、享保の一分金で、合計百四枚あることがわかった。江戸時代の一分金の中では最も金の品位が高く珍重されているもので、当時の取り引き価格から、総額で二千万円以上の価値があると目された。現在では、慶長一分金が一枚十五万円から三十五万円、正徳になると最低でも八十万円する。享保は五万円から十万円程度。
さあ、それからがたいへん。ニュースを聞いて方々からやって来た金の亡者たちが「まだあるはず」と、愛宕山のあちらこちらを掘り返し始めたのである。
著者について
八重野 充弘(やえの みつひろ)
1970年から83年まで、学習研究社で小学生向けの学習雑誌の編集に、83年から92年まで、くもん出版で子ども向けの科学雑誌などの編集に携わる。92年2月、同社を退職して作家、科学ジャーナリストとして独立、現在に至る。
1974(昭和49)年より、日本の埋蔵金伝説の調査を始め、全国約30か所を歩き、実際に発掘を行った場所も10か所以上。77年には、天草での財宝探しの経緯を綴った『三角池探検記…天草四郎軍の遺宝を求めて』で、第3回日本旅行記賞(日本交通公社刊・雑誌「旅」主催)を受賞。79年に全国の同好の士を組織して、「日本トレジャーハンティング・クラブ」を結成、現在まで代表世話人をつとめる
日本列島には二百兆円が埋まっている!? はじめに
【序章】「小判がザクザク」はおとぎ話ではない
ヤミからヤミに処分される埋蔵金
【第一章】公表された埋蔵金の発見秘話
(1)江戸の豪商・鹿島清兵衛の埋蔵金
(2)銀座のどまん中で見つかった小判二百枚
(3)昭和三十年代の東京のゴールドラッシュ
(4)深谷の大地主・斎藤家の小判
(5)利根川水系の沿岸は埋蔵金だらけ?
(6)大阪はミナミ、東京は浅草でザクザク
(7)太平洋戦争後の金銀貨の発見例
(8)太平洋戦争前の金銀貨の発見例
(9)少女が見つけた二十万枚の銅銭
【第二章】大埋宝の一部か? 発見実話と埋蔵金伝説
(1)幕府御用金十八万両を積んでいた?「開陽丸」
(2)日本最大、三十七万枚の銅銭は武田信広の埋蔵金か?
(3)海猫の小多八が略奪した黄金五万両
(4)対馬沖に沈むバルチック艦隊の財宝
(5)発見は事実だが、伝説とは無関係の秘話
【第三章】伝説化された埋蔵金の発見・目撃談
(1)富山の山中で目撃された黄金入りのカメ
(2)黒川谷に隠された武田信玄の軍用金
(3)知多半島の豪商・前野小平治の埋蔵金
(4)宝島で見つかった? キャプテン・キッドの財宝
(5)日本橋の両替商・浪花屋の埋蔵金
(6)松前藩祖・武田信広の埋蔵金
(7)日本最大の謎、徳川幕府御用金の行方